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気分で勝手気ままに書いているので、
初めての方はカテゴリーから選択してみるのも手です。
「専門用語辞典」「歴史」を最初から、ちまちまと用語を
チェックすることをオススメします。
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2012年4月13日(金)
前回 サンバの歴史−17/カーニバルと広告 (2)
(
http://wikipedisamba.ti-da.net/e3802347.html)
リオのカーニバルはサルバドールからモーホに強制移住
された黒人達によって、リズムや衣装、その楽しみ方まで
だんだんと変化していきます。地域対抗の組織が大きく
なりついにカルバヴァレスコのグループ誕生。
より現在のカーニバルの運営に一歩塚づいてきました。
変化路上でのランショ、マシシ、ククンビー、サンバ
から、バイレでの衣装コンテストやダンスパーティーに発展。
バイレでの女性達の仮装の様子。
バイアーナやハワイアン?のような衣装も見える。
音楽もダンスも衣装も黒人達のアレンジは一歩先に進んでいた。
なかったのは資金だけ。
Dongaによる初めてのサンバのレコード「
Pelo Telefone」が
大ヒットし、新聞や雑誌、ラジオの報道によって商業化に大成功。
大統領の公式参加後、行政や企業の資金がさらに投入され、
市民のカーニバル熱はますます盛り上がります。
リオのサンバに多大なる貢献をした3名組が勢揃い。
右がサンバをさらに商業ベースにのせて
大ヒット連発した作曲家
Sinhô、
中央が「
Pelo Telefone」の
Donga。
左はブロッコでの演奏やマシシ、サンバ、。ショーロの作曲の他、
クオリティの高い演奏技術で、当時のクラシックファンをも
大衆音楽に引き入れた偉大なプレイヤーの
Pixinginha。
このサンバの御三家は全員黒人アーティストである。
正面右からサンバ歌手で数々のヒットを出したJoāo da Baiana。
中央はPixinginha。何か濃い色のお酒を飲んでいるようだ。
左はDongaである。全員正装。
この時代の男子は大変におしゃれさんである。
そしてサルバドールから移住したサンバの母「
Tia Ciata」は
プラッサ・オンゼのそばに住み、そこでサンバのホーダを行って
いた。
Tia Ciataのような天性に歌とダンスの才能があるれる
Tia Bebiana、Tia Veridiana、Tia Josefa Rica・・・
サンバの母の黒人女性は他にもわんさかいたのである。
そのホーダには
Pixinguinhaを初め、歌手の
Joāo da Baianaなど
多くのミュージシャンが通っていた。
この時期のリオはまさにサンバのルネッサンス到来である。
作曲家の
Sinhô、Ismael Silvaなど次々と逸材を排出。
ランショの
Hilário Jovinoと
Tia Ciataら、カーニバルの運営の中心と
なっていたメンバーでカルナヴァレスコのグループを立ち上げた。
この時代はランショもサンバもククンビーも同時に開催。
ジャンルの壁はない。それぞれのカルナヴァレスコは
自分のブロッコなどのチームを運営し
カーニバルでその仕上がりを競いあっていた。
カーニバルブームは止まらない。チーム組織はさらに巨大化。
この流れをずっと見ていた男がいた。
これまでのやりかたとはまったく違う新しいサンバチームを
作りたいと考えていた
Ismael Silvaが創始者となって
1928年8月12日ついに初のエスコーラ
「
DEIXA FALAR/ちょっと私にも言わせてよ」
が
Estácio de Sá地区で誕生するのである。
*
ISMAEL SILVA/イスマエル・シウヴァ
1905年9月14日リオのニテロイ出身。
のちに
Estácio de Sá地区に引っ越し
17歳までそこで育ちサンバと出会う。若き日に熱中していたのが
Cafe Apoloで行われていた「
Rodas de Malandragem」だったという。
そこには
Mano Rubens、Mano Edgar、Brancura、Nilton bastosなど
マランドロのトップクラスのサンビスタ達が集まって、
Ismaelは入りびたり。
そこの友人達との出会い、音楽とダンスのサンバを心から愛していたという。
初期の
Mangueiraや
Salgueiroのモーホにも頻繁に通っている。
Tia Ciataの
Roda de Sambaにも熱中。この時期のディープなサンバ体験が
作曲やエスコーラの運営に多いに生かされている。
1925年Ismaelは初めて自ら作ったメロディの
サンバ「Me Faz Carlinhos」を録音。
しかし
1927年に体調を崩しガンボアの病院に入院。
退院後に仲間の作曲家Bideがお見舞いに来て、
紹介したのが歌手の
Francisco Alvesだった。
彼の声に惚れた
Ismaelは
Francisco Alvesの歌で
再度
Me Faz Carlinhos のタイトルを変えて
「
Amor de Malandro」でオデオンで発売し大ヒット。
1928年に
Estácio地区で念願の初のエスコーラ「
Deixa Falar」を創立。
1931年に
Francisco Alvesと
Mário Reisで「
Se Voce Juntar」も大当たり。
サンバの作曲家としての名声を獲得。しかしこの年に大の友人の
サンビスタ2名が暗殺されてしまい。失意の中で別に地区に越す。
新しい所は
Rua Visconde no Rio Branco。ここにはNoel Rosaaと出会う。
サンビスタ同士の奇跡の出会いである。
1932年Escola de Malandro の曲を作曲、何と
Noel Rosaと二人で歌っている。
1950年のサンバショーの映像で「
O Samba Nasce no Coraçāo」に参加。
1964、65年サンバのミュージカル
「O Samba Pede Passagem」をオピニオン劇場でロングラン公演。
数えきれないほどサンバの仕事をしたIsmaelは
1978年3月14日、72歳で亡くなった。
お墓の場所は
Cemitério do Catumbi。
groupe de chanteusesとサンバ・ミュージカルの一幕
(
http://ethnomusicologie.revues.org/857)
Deixa Falarのパレードで
サンバショーの一幕。正面右がIsmael。中央がPixinguinha。
ダンサーは白人姉ちゃんばっかだな・・・
あの当時のサンバのスペシャルメンバー達。
Cascata, Donga, Ataufo Alves, Pixinguinha, Joao da Baiana,
Ismael Silvaと Alfredinho do Flautim。
*Ismael Silva/イスマエル・シウヴァ
http://pt.wikipedia.org/wiki/Ismael_Silva
http://www.mpbnet.com.br/musicos/ismael.silva/index.html
*Ismael Silvaの曲の歌詞
http://letras.terra.com.br/ismael-silva/
*Ismael SilvaのCDの一部