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2012年01月10日

ブラジルの歴史〜国家建設からカーニバルへ(2)

2012年1月10日(火)

1822年 9月7日ドン・ペドロがブラジル独立を宣言。

1840年 アマゾンにゴム景気到来。
アマゾンの密林開拓から、マナウスに荘厳なオペラ劇場を建設。
ブラジルの歴史〜国家建設からカーニバルへ(2)

マナウス http://ja.wikipedia.org/wiki/マナウス

マナウス周辺は急ピッチで都市開発が行われた。
当時の金持ちは洗濯物をわざわざポルトガルに送ってたという。
この地域にはBOI BUMBÁという芸能が盛んである。
インディオの文化をベースに、ガランチード(赤組)、カプリショーゾ(青組)という
2種類の牛チームの壮大なる対抗戦。(詳しくは後述)

1850年 タップダンサーのJosé Nogueira de Azevedo Paredeが、
ダンスをしながら打楽器を叩きまくる激しい芸が大受け。
以後、打楽器そのものの改良や、新しい打楽器が次々と誕生し、
バンドはZé Pereiraと総称され、
Coedāo、Bloco、Escolaへの発展の基礎となる。
パーカッション・ルネサンス期の幕開けである。
ブラジルの歴史〜国家建設からカーニバルへ(2)
ブラジルの歴史〜国家建設からカーニバルへ(2)
手前にZé Pereiraがいるぞ。

1855年 カーニバルの演出家「Carnavalesco」も登場。その後の単純な水かけごっこから
演出で「Rei Momo, Rainha/モモ王と女王」の誕生。
絶世の美女と明るい超デブの組み合わせは絶妙。検索したらデビット・バーンのあのネタばっかが延々出てくるが、
ブラジルサイトでまともな説明を発見(http://pt.wikipedia.org/wiki/Rei_Momo

    Rei Momo - ギリシャ神話の勝利の女王、夜の女王ニーケー、ニケ
    の息子。ローマ神話ではヴォクトリアと呼ばれ、民衆の勝利と解放の象徴。
    Momoこそがカーニバルのシンボルである。ただのデブではないのだ。
    スポーツシューズのナイキはこのニーケーが語源。

Rei Momo Rainha登場後、カルナバレスコは上流階級向けの衣装や演出も手がけ、
より贅沢な素材で豪華さを競うように仕向ける。
政治的なメッセージのアレゴリアも登場し始め、政府やカトリックに対する
抑圧の解放をカーニバルに求め、政府もある程度は黙認していたようだ。
ブラジルの歴史〜国家建設からカーニバルへ(2)
カーニバル=笑いと暴力(治安はかなり悪かったようである)
ブラジルの歴史〜国家建設からカーニバルへ(2)
Tia Ciata(シアッタ姉御)が創設した
リオに最初にできたカルナバレスコ集団「O Macaco É Outro

1867年 リオに革新的チーム「TENENTES DO DIABO」誕生。斬新なアイデアを満載。
回りのチームを競争に駆り立て、レベルを一気に上げた。
これは2枚ともTENENTES DO DIABOの1913年のアレゴリア。約100年前でこれ。
ブラジルの歴史〜国家建設からカーニバルへ(2)
巨大な白い象。
ブラジルの歴史〜国家建設からカーニバルへ(2)
何とオリエンタル風な仕上げ。1907年の日本人移民第一号から6年後のことである。
すでに1800年代から中国系移民は移入されていたが、
当時のヨーロッパ系の人々から見たら、着物も提灯も超イケていたに違いない。
ブラジルの歴史〜国家建設からカーニバルへ(2)
1920年「Democráticos」のアレゴリア。当時は馬がよく登場している。
現在のカーニバルでは生きている動物、管楽器などすべて使用禁止である。
ブラジルの歴史〜国家建設からカーニバルへ(2)
年代不明。画面左下の蝶ネクタイにギターの黒人青年は作曲家のあの「SINHÔ
この頃にもちゃんと女装おじさんがウヨウヨいる。手にしている提灯が中国っぽいのも・・・。
ブラジルの歴史〜国家建設からカーニバルへ(2)
1921年 左から2番目のフルート奏者は若かりし「PIXINGUINHA」とそのメンバー。
全員白のドレスで女装。BlocoとCordāoで演奏したと書いてある。
この頃はまだ新しい斬新な衣装を作るよりお気軽に女装。
今でもリオのプレカーニバルでは街中でおっさんや兄ちゃんが女装して
ビーチサッカーしていたり、筋トレをしてたり、バールでビールを飲みながら
女子にスカートめくりをされたりしていた。もっとハードゲイな日は前の週の週末あたり?
コパの海岸沿いや、ボタフォーゴの歓楽街にうようよいてもうARTだ。
ブラジルの歴史〜国家建設からカーニバルへ(2)
年代不明、仕上がりが素晴らしい最初のアレゴリア。大きなもかなりデカイ。
これがすでに100年前とは驚く。
この頃の日本はシベリア出兵や関東大震災の時代。

これらの写真からもわかるように、人種でだいたい分かれているようだが
黒人と白人が同じチームにいる所もある。
ポルトガル人は黒人系の芸能への差別が比較的少なかったのだろうか?
制作サイドのカルナバレスコのグループは全員黒人だった。
彼らが白人からカーニバルの制作を請け負って、
衣装やアレゴリアを作っていたのではと予想する。
しかし、黒人との関係はまぁ良好だったと言えるようだ。

  *それを裏づけるかのようなPIADA
   「ポルトガルの野郎は、黒人と白人の区別がつかねぇんだよ!」と言われている。
   まぁスペイン人やイギリス人から見たら、実に寛容で詰めが甘いのがポルトガル人だ。
   そのおかげで奴隷管理も他の国と比べたら多少は緩かったようだ。(資料後述) 
      
  *サンパウロでは鈍臭い、トロい、ダサいことをポルトガル人の名前にたとえて
   「お前はまったくマヌエルだな!」「げぇ、超マヌエルじゃん!」
   「あいつ、マヌエルで最低」「いつまでマヌエルしているんだ!」とコケにする。
   ゴールを外したらマヌエル!女に逃げられたらマヌエル!である。   
   しかし、本当にマヌエルという名前の人いるので使用する時は要注意。




Posted by BBB SAMBA OKINAWA at 18:58│Comments(0)
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