2012年04月10日
サンバの歴史−13/カーニバルの近代化(1)
翁長巳酉HP http://www.deepbrabra.biz/
DEEP BRASIL 通販サイト http://www.deepbrabra.biz/shop/
沖縄サンバBBB ブログ http://sambabbb.ti-da.net/
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
*専門用語、歴史、リオ、サンパウロなどカテゴリーで分類。
気分で勝手気ままに書いているので、
初めての方はカテゴリーから選択してみるのも手です。
「専門用語辞典」「歴史」を最初から、ちまちまと用語を
チェックすることをオススメします。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2012年4月10日(火)
前開の サンバの歴史ー12/カーニバルのキャラクター達
(http://wikipedisamba.ti-da.net/e3795422.html)
これから始まるリオのカーニバルの近代化の前に、
話があちらこちらに飛びまくって前後しちゃったので、
リオの件で少々おさらいをします。
かなり重複しますのでご了承下さい。
1872年 リオの港湾労働者や都市整備のために、
バイーアからリオに26,592名の黒人奴隷が強制移住。
住居先が交通が不便な小高い丘のモーホである。
リオ市の行政による計画強制移住。
ここからリオのサンバのそもそも始まる。
1875年のサルバドール。
1900年初頭のモーホ
1889年のリオ
リオの都市開発の労働者として強制移住を押し進めた。
当時のリオ市長のペレイラ・パッソスである。
ミナスの金鉱発見によって、ミナス州から鉱物資源を
効率よく港湾へ運搬するための鉄道や道路整備も併設。
オウロ・プレットにぼんぼこ教会を立てまくったのも
この時期。中国人労働者による中華風教会も現存してます。
さらに18400年代はアマゾンでのゴム景気も景気にのり
アメリカの車のトップメーカーのフォード社もアマゾンに
広大なゴム農園を所有していました。
こうして当時のブラジルは、金鉱とゴム景気で世界の中でも
有数のトップクラスの経済力を持っていたため
大きな(無茶な)行政プロジェクトが次々と実行。
やっちゃえパワー・イケイケ全開の面白い時代でもある。
(*しかし後日、アジアでのゴム生産が始まり、合成ゴムの
開発により、あっという間にブラジルのゴム価格は暴落)
大掛かりな都市開発。
当時の市長、ペレイラ・バッソス。
バイーアから黒人をどどんと強制移住させた人。
奴隷の解放が1888年なのでこの年代ではまだ解放されていない。
当時の黒人達には人生の選択の自由も意見の自由もなかった。
しかし、当時は信仰心も厚く共同体として慎み深い生活で
モーホの暮らしは以前と貧しかったが、平和な暮らしであった
モーホの住居の長屋タイプ。
行政による計画強制移住だったため、住居が用意されていたが
水道など各住居にはなく、共同の井戸を使用していた。
当時のモーホの住民。
そのモーホの一つ、モーホ・コンセイソンで、
当時カーニバルの前身の「Rancho/ランショ」の
Rancho Dois de Ouroが誕生。
1824年ペルナンブコ生まれ、バイーア育ちのHilario Jovino Ferreiraが
新しいグループの「Rancho Rei de Ouro」を結成。
音楽とダンスに優れた才能を持っていた彼女のグループはたちまち
大人気となりRanchoを飛躍的に発展。
人望も厚く、大勢が参加できる地区のカーニバルの土台を作り
皆から「Ranchonista」と呼ばれる。
衣装の豪華さや構成など、内容がますます巨大化していくにつれて
ランショニスタはカルナバレスコにシフトチェンジしていく。
ランショの衣装。のちにカルナバレスコを誕生させるきっかけに。
Hilario Jovino Ferreiraとその息子
1800年代後半、バイーアからリオに移住した黒人女性の多くは、
料理と洗濯の労働者として働いていた。台所や洗濯場で多くの黒人女性達は
歌を歌いサンバを楽しんでいた。当時のサンバとはオリシャ信仰に
まつわるものから、労働や恋愛の歌もあったという。
その中から歌やダンスの名手Tia Bebiana、Tia Veridiana、
Tia Preseiliana de Santos Amaro、Tia Josefa Rica他、素晴らしい
女性のサンビスタの元祖が次々と誕生。週末にはモーホの各地で
音楽やダンスで盛り上がっていたという。
そのモーホにサンバの母「TIa Ciata」が移住したのが1876年。
Hilária Batista de Almeida(Tia Ciata/別名Tia Baiana)は
地域の信仰の中心だったカンドンブレの女性司祭であり、
オシュンの化身であった。Tia Ciataは常にエレガントで
パワフルな黒人女性で、黒人達の居住区の精神文化を支え、
地域の娯楽とお祭りを運営を行った。
*Tia Ciataの画像
http://www.overmundo.com.br/banco/tia-ciata-18541924
Tia Ciataはオリシャの集いの最中に、警察がドアを叩いても
少しも驚かず警察官を招き入れたという。
João Batista da Silvaと結婚し、14名の子供に恵まれ、
そこでの生活習慣は小さなアフリカ。
彼女は黒人の居住区のモーホの中で、カンドンブレの
信仰を守り、サンバやショーロの娯楽と音楽性を高め、
リオの最初の Praça Onzeからのカーニバルとエスコーラの
創設にも加わり。サンバの発展に、大きく寄与した。
リオでの住居はRua Visconde de Itaúna(Praça Onzeのすぐ側)
そこの裏庭ではPxinguinha達も集い、サンバやショーロを演奏。
最初のサンバのレコード「Pelo Terefone」のDongaや
Mauro de Almeida、Sinhôもここでサンバを演奏していた。
当時、参加者が自由に集い歌が中心の集まりを「Saraus/サラウ」
と呼んでいた。後にプラッサ11のカーニバルがここから産まれる。
1900年初頭のプラッサ・オンゼ
1924年 Tia Ciata亡くなる。
*Wiki/http://pt.wikipedia.org/wiki/Tia_Ciata
*http://www.geledes.org.br/atlantico-negro/afrobrasileiros/tia-ciata/2408-tia-ciata
以上は(サンバの歴史−9リオのサンバ/
http://wikipedisamba.ti-da.net/e3786733.html))から一部転載し加筆。
リオ市内のカーニバルは「Rancho/ランショ」「Bloco/ブロッコ」
「Cordāoes/コルドンエス」「Entrudo/エントルード」など
ポルトガル寄りな表現の他、「Cucumbi/ククンビー」などアフリカ的な
表現を行うグループなど様々に混在する内容だった。
いずれも興味深いことに、一部のグループでは黒人も白人も混在。
当時人種差別は激しかったが、カーニバル時はお互いを必要としていた。
*Cucumbi-Wiki/http://pt.wikipedia.org/wiki/Cucumbi
「Cscumbi」「Cucumbe」「Cucumbre」とも呼ばれている。
アフリカ寄りのコンガーダやインディオ文化、カトリック寄りのゲヘイロ、
やヘイザードが組み合わさったブラジル独自の芸能。
リオでは「Cucumbis Carnavalescos」も誕生。ククンビーだけの
演出を行うメンバーも登場した。
記録によると1853年カンデラリア教会の前で、André Mandes da Costaの
エントルードの中産階級白人グループが黒人奴隷達に暴力行為。
多発していた暴力事件でエントルード禁止令に発展。
これを破ったものは12mil-réis(今の価値でいくらだ?)
2日〜8日の禁固刑と制定。当時のカーニバルはかなりバイオレンス・・・
O Entrudo Familiar/家庭内でのエントルード
レモン水などをかけあう水かけっこ。
家の中の家族同士ですでにこんなに危ない・・・
こんなのいけませんよね。掃除が大変じゃん。
O Entrudo Popular/路上でのエントルード
路上の市民に向けて、無茶苦茶に水をかけあうことから
喧嘩に発展したり、その隙にスリを行ったりとやりたい放題。
町中これ。手前の水鉄砲が巨大だ!
ほ〜らもう危ない危ない。ダメじゃん。
*Entrudo - wiki/http://pt.wikipedia.org/wiki/Entrudo
楽団の「Zé Pereira」の誕生もこの時期だ。
*サンバの歴史ー12/カーニバルのキャラクター達を参照して下さい。
(http://wikipedisamba.ti-da.net/e3795422.html)
毎年より豪華に巨大化するアレゴリアや増大する参加者、その衣装の
デザインや制作、チームの音楽の楽曲制作など、専門の制作チームが必要となった。
ついにカルナバレスコのグループが誕生である。
非公式の記録では1838年2月3日にも同誌に掲載されたという記事も
あるが、公式記録では1842年ペルナンブコの新聞紙上で初めて
ロペス・ガマ神父による「運搬人のサンバ」という紀行文が掲載。
ブラジルのマスコミ史上、初めて「SAMBA」の文字が掲載された。
そこからわすが50年程度でリオにカルナヴァレスコが産まれたのである。
この期間の金鉱やゴム景気の急激な経済発展と、黒人労働者の移入、
これらの条件が重ならないと、リオのカーニバルの土台の急速な進歩は
なしえないことだったと推測される。
Hilario Jovino やTia Ciataも中心人物だ。
後にこの二人は喧嘩別れをしてしまう。
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*専門用語、歴史、リオ、サンパウロなどカテゴリーで分類。
気分で勝手気ままに書いているので、
初めての方はカテゴリーから選択してみるのも手です。
「専門用語辞典」「歴史」を最初から、ちまちまと用語を
チェックすることをオススメします。
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2012年4月10日(火)
前開の サンバの歴史ー12/カーニバルのキャラクター達
(http://wikipedisamba.ti-da.net/e3795422.html)
これから始まるリオのカーニバルの近代化の前に、
話があちらこちらに飛びまくって前後しちゃったので、
リオの件で少々おさらいをします。
かなり重複しますのでご了承下さい。
1872年 リオの港湾労働者や都市整備のために、
バイーアからリオに26,592名の黒人奴隷が強制移住。
住居先が交通が不便な小高い丘のモーホである。
リオ市の行政による計画強制移住。
ここからリオのサンバのそもそも始まる。
1875年のサルバドール。
1900年初頭のモーホ
1889年のリオ
リオの都市開発の労働者として強制移住を押し進めた。
当時のリオ市長のペレイラ・パッソスである。
ミナスの金鉱発見によって、ミナス州から鉱物資源を
効率よく港湾へ運搬するための鉄道や道路整備も併設。
オウロ・プレットにぼんぼこ教会を立てまくったのも
この時期。中国人労働者による中華風教会も現存してます。
さらに18400年代はアマゾンでのゴム景気も景気にのり
アメリカの車のトップメーカーのフォード社もアマゾンに
広大なゴム農園を所有していました。
こうして当時のブラジルは、金鉱とゴム景気で世界の中でも
有数のトップクラスの経済力を持っていたため
大きな(無茶な)行政プロジェクトが次々と実行。
やっちゃえパワー・イケイケ全開の面白い時代でもある。
(*しかし後日、アジアでのゴム生産が始まり、合成ゴムの
開発により、あっという間にブラジルのゴム価格は暴落)
大掛かりな都市開発。
当時の市長、ペレイラ・バッソス。
バイーアから黒人をどどんと強制移住させた人。
奴隷の解放が1888年なのでこの年代ではまだ解放されていない。
当時の黒人達には人生の選択の自由も意見の自由もなかった。
しかし、当時は信仰心も厚く共同体として慎み深い生活で
モーホの暮らしは以前と貧しかったが、平和な暮らしであった
モーホの住居の長屋タイプ。
行政による計画強制移住だったため、住居が用意されていたが
水道など各住居にはなく、共同の井戸を使用していた。
当時のモーホの住民。
そのモーホの一つ、モーホ・コンセイソンで、
当時カーニバルの前身の「Rancho/ランショ」の
Rancho Dois de Ouroが誕生。
1824年ペルナンブコ生まれ、バイーア育ちのHilario Jovino Ferreiraが
新しいグループの「Rancho Rei de Ouro」を結成。
音楽とダンスに優れた才能を持っていた彼女のグループはたちまち
大人気となりRanchoを飛躍的に発展。
人望も厚く、大勢が参加できる地区のカーニバルの土台を作り
皆から「Ranchonista」と呼ばれる。
衣装の豪華さや構成など、内容がますます巨大化していくにつれて
ランショニスタはカルナバレスコにシフトチェンジしていく。
ランショの衣装。のちにカルナバレスコを誕生させるきっかけに。
Hilario Jovino Ferreiraとその息子
1800年代後半、バイーアからリオに移住した黒人女性の多くは、
料理と洗濯の労働者として働いていた。台所や洗濯場で多くの黒人女性達は
歌を歌いサンバを楽しんでいた。当時のサンバとはオリシャ信仰に
まつわるものから、労働や恋愛の歌もあったという。
その中から歌やダンスの名手Tia Bebiana、Tia Veridiana、
Tia Preseiliana de Santos Amaro、Tia Josefa Rica他、素晴らしい
女性のサンビスタの元祖が次々と誕生。週末にはモーホの各地で
音楽やダンスで盛り上がっていたという。
そのモーホにサンバの母「TIa Ciata」が移住したのが1876年。
Hilária Batista de Almeida(Tia Ciata/別名Tia Baiana)は
地域の信仰の中心だったカンドンブレの女性司祭であり、
オシュンの化身であった。Tia Ciataは常にエレガントで
パワフルな黒人女性で、黒人達の居住区の精神文化を支え、
地域の娯楽とお祭りを運営を行った。
*Tia Ciataの画像
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Tia Ciataはオリシャの集いの最中に、警察がドアを叩いても
少しも驚かず警察官を招き入れたという。
João Batista da Silvaと結婚し、14名の子供に恵まれ、
そこでの生活習慣は小さなアフリカ。
彼女は黒人の居住区のモーホの中で、カンドンブレの
信仰を守り、サンバやショーロの娯楽と音楽性を高め、
リオの最初の Praça Onzeからのカーニバルとエスコーラの
創設にも加わり。サンバの発展に、大きく寄与した。
リオでの住居はRua Visconde de Itaúna(Praça Onzeのすぐ側)
そこの裏庭ではPxinguinha達も集い、サンバやショーロを演奏。
最初のサンバのレコード「Pelo Terefone」のDongaや
Mauro de Almeida、Sinhôもここでサンバを演奏していた。
当時、参加者が自由に集い歌が中心の集まりを「Saraus/サラウ」
と呼んでいた。後にプラッサ11のカーニバルがここから産まれる。
1900年初頭のプラッサ・オンゼ
1924年 Tia Ciata亡くなる。
*Wiki/http://pt.wikipedia.org/wiki/Tia_Ciata
*http://www.geledes.org.br/atlantico-negro/afrobrasileiros/tia-ciata/2408-tia-ciata
以上は(サンバの歴史−9リオのサンバ/
http://wikipedisamba.ti-da.net/e3786733.html))から一部転載し加筆。
リオ市内のカーニバルは「Rancho/ランショ」「Bloco/ブロッコ」
「Cordāoes/コルドンエス」「Entrudo/エントルード」など
ポルトガル寄りな表現の他、「Cucumbi/ククンビー」などアフリカ的な
表現を行うグループなど様々に混在する内容だった。
いずれも興味深いことに、一部のグループでは黒人も白人も混在。
当時人種差別は激しかったが、カーニバル時はお互いを必要としていた。
*Cucumbi-Wiki/http://pt.wikipedia.org/wiki/Cucumbi
「Cscumbi」「Cucumbe」「Cucumbre」とも呼ばれている。
アフリカ寄りのコンガーダやインディオ文化、カトリック寄りのゲヘイロ、
やヘイザードが組み合わさったブラジル独自の芸能。
リオでは「Cucumbis Carnavalescos」も誕生。ククンビーだけの
演出を行うメンバーも登場した。
記録によると1853年カンデラリア教会の前で、André Mandes da Costaの
エントルードの中産階級白人グループが黒人奴隷達に暴力行為。
多発していた暴力事件でエントルード禁止令に発展。
これを破ったものは12mil-réis(今の価値でいくらだ?)
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O Entrudo Familiar/家庭内でのエントルード
レモン水などをかけあう水かけっこ。
家の中の家族同士ですでにこんなに危ない・・・
こんなのいけませんよね。掃除が大変じゃん。
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路上の市民に向けて、無茶苦茶に水をかけあうことから
喧嘩に発展したり、その隙にスリを行ったりとやりたい放題。
町中これ。手前の水鉄砲が巨大だ!
ほ〜らもう危ない危ない。ダメじゃん。
*Entrudo - wiki/http://pt.wikipedia.org/wiki/Entrudo
楽団の「Zé Pereira」の誕生もこの時期だ。
*サンバの歴史ー12/カーニバルのキャラクター達を参照して下さい。
(http://wikipedisamba.ti-da.net/e3795422.html)
毎年より豪華に巨大化するアレゴリアや増大する参加者、その衣装の
デザインや制作、チームの音楽の楽曲制作など、専門の制作チームが必要となった。
ついにカルナバレスコのグループが誕生である。
非公式の記録では1838年2月3日にも同誌に掲載されたという記事も
あるが、公式記録では1842年ペルナンブコの新聞紙上で初めて
ロペス・ガマ神父による「運搬人のサンバ」という紀行文が掲載。
ブラジルのマスコミ史上、初めて「SAMBA」の文字が掲載された。
そこからわすが50年程度でリオにカルナヴァレスコが産まれたのである。
この期間の金鉱やゴム景気の急激な経済発展と、黒人労働者の移入、
これらの条件が重ならないと、リオのカーニバルの土台の急速な進歩は
なしえないことだったと推測される。
Hilario Jovino やTia Ciataも中心人物だ。
後にこの二人は喧嘩別れをしてしまう。
Posted by BBB SAMBA OKINAWA at 16:48│Comments(0)
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