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2012年06月22日

サンパウロのサンバ/VAI-VAIの歩み(11)

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*専門用語、歴史、リオ、サンパウロなどカテゴリーで分類。
気分で勝手気ままに書いているので、
初めての方はカテゴリーから選択してみるのも手です。
「専門用語辞典」「歴史」を最初から、ちまちまと用語を
チェックすることをオススメします。


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2012年6月22日(金)

前回の サンパウロのサンバ/VAI-VAIの歩み(10)
http://wikipedisamba.ti-da.net/e3875758.html

 前回までオズワルジーニョをざっとご紹介しました。
またVai-Vai話に戻りたいと思います。
もうちょい重要な人物を紹介します。

サンパウロのサンバ/VAI-VAIの歩み(11)
José Jambo Filho(Chiclé)

Chicléは1931年6月18日サントス出身。漁師。
家族でノルデスチのナタールで生活。サンバはそこで出会った。
1948年にサンパウロに戻りLavapésとBrasil Morenoで
パンデイロ奏者として活躍。1952年にVai-Vaiへ。
Ala dos Nobresを設立。Vai-Vaiに都会的なデザインのAlaを
持ち込んだ。漁師のおっさんだが非常に上品でおしゃれな人なのだ。
古きよきサンパウロのサンバを支えた一人である。

サンパウロのサンバ/VAI-VAIの歩み(11)
Sebastiāo Eduardo Amaral(Pé Rachado)

生年月日不明。Vai-Vaiで25年バテリアのジレを行う。
その後「Barroca Zona Sul」というエスコーラを創立。
1968年にFederaçāo das Escola de Samba e Cordões Carnavaresco
de Sāo Paulo/エスコーラ・ジ・サンバとコルダォンエス・
カルナヴァレスコ連合(組合)を創立した。
組織を立ち上げ、人をまとめる力があった人である。

*翁長は1990年に初めてサンパウロのカーニバルでバテリアで
参加させてもらったのが「Barroca Zona Sul/バホッカ・ゾナ・スール」だ。
Vai-Vaiと深い関係を持ち、チームカラーはピンクとグリーンの
マンゲイラカラー。サンパウロ、リオと伝統的なチームが親代わりだ。
 Barrocaはブラジルのエスコーラで初めてカーニバルのエンヘードの
テーマに日本を選んだチームである。1988年に移民80周年を迎えた
日本をテーマにしたのだ。チーム内からは大きな反対もあった。
「踊れないジャポネースが大勢参加したら、チームのクオリティが
下がってしまう。それに日本人達は黒人に差別的だ。
参加するはずない」と。それらの意見をすべて押さえたのが、
当時有名なジレのフバーであった。本業は銀行強盗だ。
「そうあいつらはジャポネースでブラジレイロだ。
サンバが好きなジャポネースがいたら参加する権利がある。
サンバは誰にでも平等なんだ。順位はどうでもいい!。
俺はヤツらにチャンスを与える。文句あるやつは他のエスコーラへ行け!」
そしてBarrocaのテーマは「日本移民80周年」に決定した。
頭を抱えたのがカルナバレスコや幹部。
日本に関するツテも資料も何もないのだ。
そこで彼らが向かったのは当時日系人街であったリベルダージである。
現在は日系人街ではなくオリエンタル街と称されている。
彼らの目的は、日本に関する写真資料の依頼と参加者の募集である。
リベルダージ商工会議所、移民資料館、日本文化協会をたずねた。
アポなしだったため、すべて入り口で帰されてしまった。
「日本人はサンバに興味ないし、カーニバルにも参加しない。
資料提供の協力もできないし、チームのテーマにしたからと
後で金銭の要求など絶対にお断りだ!」と強く拒絶されてしまった。
想像以上の日本側の拒絶にBarrocaの幹部は困り果ててしまう。
フバーはその現状を上手くマスコミを利用した。
翌日誌面に「日系社会からの強い拒否。途方にくれるエスコーラ」と
掲載されたのだ。それを知った日系2世のジャーナリストの
ウイリアム木村がBarrocaとコンタクトし名案を提案。
エスコーラに沖縄県人会を紹介したのだ。
沖縄県人会はBarrocaを大歓迎。一生に一度カーニバルに出てみたかった
という人々が沢山いたのだ。カップリングは大成功。
駅前の大阪系のこけし食堂も協力。Barrocaからは衣装担当
スタッフが派遣され、2階の倉庫を使って時間のある
おばさん達が集まって、初めて衣装作りが始まった。
沖縄県人会の体育館ではダンスや振り付けの練習も始まった。
日曜日は勿論みんなでチームのクァドラへ行くのであるが、
それがまた高いハードルであった。やはりクァドラは怖いのだ。
親戚家族からも反対されてしまう・・・・。
しかし、どうしてもアーラで参加したい沖縄のおばあ達は
ついに行動に出たのだ。

(続く)




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Posted by BBB SAMBA OKINAWA at 14:10│Comments(0)サンパウロ
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