2012年01月30日
サンバの歴史−8/アンゴラの大きな役割
2012年1月30日(月)
前回の 2012年カーニバル情報−1
(http://wikipedisamba.ti-da.net/e3711614.html)
前々回 サンバの歴史−7/各地の芸能とリオの誕生
(http://wikipedisamba.ti-da.net/e3711575.html)
リオやサンパウロのサンバ協会のHPは新しい情報が
UPされていなかったので、新しい情報が入り次第UPします。
サンバの歴史篇、続き。
今回はサンバを初め、ブラジルの芸能文化に大きな影響を
与えたアンゴラ(コンゴ王国)を掘り下げます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【サンバの歴史−8/アンゴラの大きな役割】
![サンバの歴史−8/アンゴラの大きな役割](//img05.ti-da.net/usr/wikipedisamba/125px-Flag_of_Angola.svg.png)
アンゴラ共和国/República de Angola
国土面積は124万6700平方キロメートルで、ニジェールに次いで世界で23番目。
また日本の約3.3倍の大きさ。
![サンバの歴史−8/アンゴラの大きな役割](//img05.ti-da.net/usr/wikipedisamba/%E3%82%A2%E3%83%95%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%9C%B0%E5%9B%B3.gif)
アフリカ地図
ーアンゴラはブラジルと同じ旧ポルトガル植民地です。
国名はかつてこの地を支配していた、
ンドンゴ王国の王の称号ンゴラに由来。
*バントゥー語系のアフリカ人の住む地域で、
この言語の範囲は、現在のカメルーンから中央アフリカと
東アフリカを横切り、南アフリカまでのブラックアフリカに分布する
400以上の民族(140 - 600[1]以上の言語)に対する一般的分類
となっています。
ー14世紀にアンゴラ北部に、バントゥー語系のコンゴ人による
コンゴ王国が建国。このコンゴ王国とは現在のアンゴラ北西部
のザイーレ州に属します。
![サンバの歴史−8/アンゴラの大きな役割](//img05.ti-da.net/usr/wikipedisamba/200px-Africa_map_from_Atlas_1648.png)
1648年のアフリカの地図。ポルトガル人のヴァスコ・ダ・ガマが
インド洋航路を発見した150年後に制作。
*バントゥー語(http://ja.wikipedia.org/wiki/バントゥー語群)
(http://www.inzotumbansi.org/malunda/a-historia-do-povo-bantu)
*アンゴラ(http://ja.wikipedia.org/wiki/アンゴラ)
ー14世紀当時はアンゴラという国名ではなく、王様が国土を統治
するコンゴ王国など、いくつかの王国が混在する地帯でした。
1485年にコンゴ王ンジンガ・ンクウとの間に両国の対等な立場で
コンゴ王国とポルトガル王国の国交樹立成立。
コンゴ王国はポルトガルの文化やカトリックを積極的に受け入れて
首都名のンバンザ・コンゴをポルトガル語のサン・サルヴァドールと
改名。ポルトガルは積極的に友好的な態度だったコンゴ王国からでは
なく、南部のアンゴラ地域からどしどし奴隷狩りを始め、
以降ブラジルやウルグアイ、アルゼンチン、キューバなど南米や
西インド諸島への黒人奴隷供給の代表地となっていきました。
ー1617年に奴隷積み出し中継地の*ベンゲラが建設されると奴隷貿易は
さらに拡大。1576年から1836年までの間に、300万人(〜500万人の
説も)の奴隷がアンゴラからラテンアメリカに連行。
*ピシンギーニャの曲の歌詞に出て来る「ベンゲレ」は
このベンゲラからきている。
*アンゴラからブラジルに送られた黒人奴隷は、次々と脱走。
ブラジル各地にアンゴラ・ジャンガ(小アンゴラ)と呼ばれる
キロンボ(脱走奴隷集落)を築いた。
*ブラジルの各地に伝わる伝統芸能の「コンガーダ」は、
この昔アンゴラにあったコンゴ王国の名称から来ています。
ーポルトガルが最初にコンゴ王国に見せた友好的態度は仮の姿である。
ベンゲレなどの奴隷狩りの中心地であったコンゴ王国とは別の王国
のンドンゴ王国やマタンバ王国は、当然ポルトガルに対して激しい
抵抗戦を行う。
ー1623年にアンゴラ南部のンドンゴ王国やマタンバ王国を統括し
権力を握ったンドンゴ王国の*ンジンガ女王は、一時はポルトガルと
戦争状態にあったオランダとも同盟を結びポルトガルと徹底抗戦。
それから数十年に渡って、姉妹と反ポルトガル戦争を続けた戦う女王である。
1657年、イタリアからの伝道師のグループがンドンゴ王国を訪問した
さいにンジンガ女王はカトリックの洗礼を受ける。
カトリック名はDona Ana de Sousa。
ンジンガ女王は1657年76歳で死去。あの時代では大変に高齢である。
ジンガ女王の死を伝えられたブラジルでは、奴隷の騒動を恐れて
軍警察の配備を行ったという記録もある。
![サンバの歴史−8/アンゴラの大きな役割](//img05.ti-da.net/usr/wikipedisamba/rainha_01.jpg)
*ンジンガ/Nzinga Mbandi Ngola(1587〜1663)
確認されているンジンガ女王の様々な名称は: Rainha Nzinga, Nzinga I,
Rainha Nzinga Mdongo, Nzinga Mbandi, Nzinga Mbande, Jinga, Singa,
Zhinga, Ginga, Ana Nzinga, Ngola Nzinga, Nzinga de Matamba,
Rainha Nzingha de Ndongo, Ann Nzingha, Nxingha,
Mbande Ana Nzingha e Ann Nzingha.
ーしかし1648年、ついにポルトガルに征服されてしまう。
1657年ンジンガ女王はポルトガルと平和条約を結ぶ。
ンジンガ女王を見下していたポルトガル人は、条約締結の座に
女王のために椅子を用意していなかった。
女王は側近を椅子にして対等の立場での交渉を行ったという。
ンドンゴ王国はポルトガル人に敗れたが、
尊厳と対等を守り通したンジンガ女王。
今日も多くのアンゴラ人とアフリカ系ブラジル人の
抵抗の象徴となった実在の人物である。
![サンバの歴史−8/アンゴラの大きな役割](//img05.ti-da.net/usr/wikipedisamba/250px-Nzingambande.jpg)
アンゴラのルアンダ市内に立像するンジンガ女王の像。
*ポルトガルとの和平交渉において、アフリカ側が椅子に座ることに
こだわった理由に、支配者は常に椅子に座り、立っている使用人(奴隷)
に用事を言いつける関係の象徴であることから、女王は立ったままで
平和条約を受け入れるわけにはいかない。
![サンバの歴史−8/アンゴラの大きな役割](//img05.ti-da.net/usr/wikipedisamba/200px-Queen_Nzinga_1657.png)
ポルトガルと平和条約の交渉を行うンジンガ女王(左)
*このンジンガ女王は、現在のサンバカーニバルのシンボルである
ヘイ・モモ(モモ王様)の伴侶のハイーニャ(ンジンガ女王)である。
ハイーニャ・ジンガは単なるモモ王様のお飾りの美女ではない。
ジンガの意味は、抵抗のシンボルであり力強く大変に奥が深い。
*Rainha Nginga (http://pt.wikipedia.org/wiki/Ana_de_Sousa)
(http://mnoticias.8m.com/zinga_cserrano.htm)
![サンバの歴史−8/アンゴラの大きな役割](//img05.ti-da.net/usr/wikipedisamba/imagem.jpeg)
●Ginga Rainha de Angola
出版社:Oficina do Livro
著者:Manuel Ricardo Miranda,
アンゴラの女王ンジンガの物語。
アンゴラは1961年からポルトガルからの独立戦争を戦い、
1975年に独立を達成したが、独立後も1975年から2002年
に内戦が完全に終結するまで紛争が続いていた。
この期間に(1965年〜)アフリカ各地を歴訪していた
チェ・ゲバラもアンゴラへ入り、コンゴでは一時的に闘争
(コンゴ動乱)にも参加していた。
*紛争中でもアンゴラの首都ルアンダでは、ブラジルの
サンバのマルチーニョ・ダ・ビオラやベッチ・カルバーリョ
MPBのジルベルト・ジルやアメリカのソウルの大物アーティストの
ポインター・シスターズなど多くの音楽公演が行われていた。
*アンゴラ(http://ja.wikipedia.org/wiki/アンゴラ)
*バントゥー語系(http://ja.wikipedia.org/wiki/バントゥー系民族)
ーこのDVDの制作はアフリカの投資銀行(Banco Africano de Investimentos)
やテレビ局のTVSATなど数社が制作助成を行ってDVDの商品化が実現。
初めて制作された、アンゴラのルーツミュージックの紹介の映像。
アンゴラではキンブンド系の一般大衆に密着している音楽を、
「センバ」と呼んでいます。
都市部のエレクトリックな楽器を使った旋律のモダンな「センバ」
歌詞やメッセージを重視した、若者向けのラップのような「センバ」
年配者の人生の渋みと哀しみととうとうと歌う「センバ」
農村部のアフリカの激しいダンスと太鼓の掛け合いの「せンバ」
これらの音楽をアンゴラでは「センバ」と呼んでいます。
今流行のヒットチャートのセンバ。懐メロのセンバ。地方の伝統
芸能のセンバです。サンバの語源は諸説ありますが、アンゴラの
一般芸能の総称を「センバ/SEMBA」ということから、この芸能
の名称がブラジルの「サンバ」の名称に何らかの関係があるので
はないかとされており、アンゴラでは地域によって
「ゼンバ/Zemba」「ザンバ/Zamba」という言い方もあるようです。
このDVDの中のライブ映像は2003年1月28日、29日にアンゴラの
ラジオ局(Radio Nacional de Angola)の公開スタジオライブの映像を中心に、
ルアンダのストリートシーンや、*クドゥーロも収録。
スタジオライブの中のビリンバウの持ち手の細工が絶妙。
あれなら長時間持っても疲れないだろう。
他にアンゴラの市内の風景や部族の伝統芸能まで、新旧のアンゴラの
音楽シーンを、国際的に成功を納めたアンゴラ人のミュージシャンの
パウロ・フローレス総監督のアンゴラ側の制作に
よってアンゴラ経由でブラジルから出たDVDである。
*クドゥーロ/Kuduro =アンゴラで生まれたクラブミュージック
![サンバの歴史−8/アンゴラの大きな役割](//img05.ti-da.net/usr/wikipedisamba/%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%90.jpg)
「Quintal do Semba」アンゴラの音楽シーンを紹介した珍しいDVD
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
まったく音楽とは関係ありませんがアンゴラつながりで「アンゴラウサギ」
![サンバの歴史−8/アンゴラの大きな役割](//img05.ti-da.net/usr/wikipedisamba/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%A9jpeg.jpeg)
きゃん可愛いん
![サンバの歴史−8/アンゴラの大きな役割](//img05.ti-da.net/usr/wikipedisamba/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%A9%EF%BC%92.jpeg)
イングリッシュアンゴラ、たまらんですね。
アンゴラうさぎ (主な品種:イングリッシュアンゴラ、フレンチアンゴラ、
サテンアンゴラ、ジャイアントアンゴラ)
本来は被毛を利用するために生み出された長毛種。
非常におとなしい性格で我慢強く、人形のように動かない個体が多い。
日本アンゴラ種は日本で独自に改良された品種である。
(独)家畜改良センター茨城牧場・長野支場において家畜遺伝資源の
維持を目的として飼育(生体維持)されていたが、平成18年度から
凍結受精卵新規導入による血統維持となり、
現在、生体の飼育はされていない。
しかし、その血統は、神戸市立六甲山牧場に受け継がれており、
生体を見ることが可能である。販売も行われています。
前回の 2012年カーニバル情報−1
(http://wikipedisamba.ti-da.net/e3711614.html)
前々回 サンバの歴史−7/各地の芸能とリオの誕生
(http://wikipedisamba.ti-da.net/e3711575.html)
リオやサンパウロのサンバ協会のHPは新しい情報が
UPされていなかったので、新しい情報が入り次第UPします。
サンバの歴史篇、続き。
今回はサンバを初め、ブラジルの芸能文化に大きな影響を
与えたアンゴラ(コンゴ王国)を掘り下げます。
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【サンバの歴史−8/アンゴラの大きな役割】
![サンバの歴史−8/アンゴラの大きな役割](http://img05.ti-da.net/usr/wikipedisamba/125px-Flag_of_Angola.svg.png)
アンゴラ共和国/República de Angola
国土面積は124万6700平方キロメートルで、ニジェールに次いで世界で23番目。
また日本の約3.3倍の大きさ。
![サンバの歴史−8/アンゴラの大きな役割](http://img05.ti-da.net/usr/wikipedisamba/%E3%82%A2%E3%83%95%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%9C%B0%E5%9B%B3.gif)
アフリカ地図
ーアンゴラはブラジルと同じ旧ポルトガル植民地です。
国名はかつてこの地を支配していた、
ンドンゴ王国の王の称号ンゴラに由来。
*バントゥー語系のアフリカ人の住む地域で、
この言語の範囲は、現在のカメルーンから中央アフリカと
東アフリカを横切り、南アフリカまでのブラックアフリカに分布する
400以上の民族(140 - 600[1]以上の言語)に対する一般的分類
となっています。
ー14世紀にアンゴラ北部に、バントゥー語系のコンゴ人による
コンゴ王国が建国。このコンゴ王国とは現在のアンゴラ北西部
のザイーレ州に属します。
![サンバの歴史−8/アンゴラの大きな役割](http://img05.ti-da.net/usr/wikipedisamba/200px-Africa_map_from_Atlas_1648.png)
1648年のアフリカの地図。ポルトガル人のヴァスコ・ダ・ガマが
インド洋航路を発見した150年後に制作。
*バントゥー語(http://ja.wikipedia.org/wiki/バントゥー語群)
(http://www.inzotumbansi.org/malunda/a-historia-do-povo-bantu)
*アンゴラ(http://ja.wikipedia.org/wiki/アンゴラ)
ー14世紀当時はアンゴラという国名ではなく、王様が国土を統治
するコンゴ王国など、いくつかの王国が混在する地帯でした。
1485年にコンゴ王ンジンガ・ンクウとの間に両国の対等な立場で
コンゴ王国とポルトガル王国の国交樹立成立。
コンゴ王国はポルトガルの文化やカトリックを積極的に受け入れて
首都名のンバンザ・コンゴをポルトガル語のサン・サルヴァドールと
改名。ポルトガルは積極的に友好的な態度だったコンゴ王国からでは
なく、南部のアンゴラ地域からどしどし奴隷狩りを始め、
以降ブラジルやウルグアイ、アルゼンチン、キューバなど南米や
西インド諸島への黒人奴隷供給の代表地となっていきました。
ー1617年に奴隷積み出し中継地の*ベンゲラが建設されると奴隷貿易は
さらに拡大。1576年から1836年までの間に、300万人(〜500万人の
説も)の奴隷がアンゴラからラテンアメリカに連行。
*ピシンギーニャの曲の歌詞に出て来る「ベンゲレ」は
このベンゲラからきている。
*アンゴラからブラジルに送られた黒人奴隷は、次々と脱走。
ブラジル各地にアンゴラ・ジャンガ(小アンゴラ)と呼ばれる
キロンボ(脱走奴隷集落)を築いた。
*ブラジルの各地に伝わる伝統芸能の「コンガーダ」は、
この昔アンゴラにあったコンゴ王国の名称から来ています。
ーポルトガルが最初にコンゴ王国に見せた友好的態度は仮の姿である。
ベンゲレなどの奴隷狩りの中心地であったコンゴ王国とは別の王国
のンドンゴ王国やマタンバ王国は、当然ポルトガルに対して激しい
抵抗戦を行う。
ー1623年にアンゴラ南部のンドンゴ王国やマタンバ王国を統括し
権力を握ったンドンゴ王国の*ンジンガ女王は、一時はポルトガルと
戦争状態にあったオランダとも同盟を結びポルトガルと徹底抗戦。
それから数十年に渡って、姉妹と反ポルトガル戦争を続けた戦う女王である。
1657年、イタリアからの伝道師のグループがンドンゴ王国を訪問した
さいにンジンガ女王はカトリックの洗礼を受ける。
カトリック名はDona Ana de Sousa。
ンジンガ女王は1657年76歳で死去。あの時代では大変に高齢である。
ジンガ女王の死を伝えられたブラジルでは、奴隷の騒動を恐れて
軍警察の配備を行ったという記録もある。
![サンバの歴史−8/アンゴラの大きな役割](http://img05.ti-da.net/usr/wikipedisamba/rainha_01.jpg)
*ンジンガ/Nzinga Mbandi Ngola(1587〜1663)
確認されているンジンガ女王の様々な名称は: Rainha Nzinga, Nzinga I,
Rainha Nzinga Mdongo, Nzinga Mbandi, Nzinga Mbande, Jinga, Singa,
Zhinga, Ginga, Ana Nzinga, Ngola Nzinga, Nzinga de Matamba,
Rainha Nzingha de Ndongo, Ann Nzingha, Nxingha,
Mbande Ana Nzingha e Ann Nzingha.
ーしかし1648年、ついにポルトガルに征服されてしまう。
1657年ンジンガ女王はポルトガルと平和条約を結ぶ。
ンジンガ女王を見下していたポルトガル人は、条約締結の座に
女王のために椅子を用意していなかった。
女王は側近を椅子にして対等の立場での交渉を行ったという。
ンドンゴ王国はポルトガル人に敗れたが、
尊厳と対等を守り通したンジンガ女王。
今日も多くのアンゴラ人とアフリカ系ブラジル人の
抵抗の象徴となった実在の人物である。
![サンバの歴史−8/アンゴラの大きな役割](http://img05.ti-da.net/usr/wikipedisamba/250px-Nzingambande.jpg)
アンゴラのルアンダ市内に立像するンジンガ女王の像。
*ポルトガルとの和平交渉において、アフリカ側が椅子に座ることに
こだわった理由に、支配者は常に椅子に座り、立っている使用人(奴隷)
に用事を言いつける関係の象徴であることから、女王は立ったままで
平和条約を受け入れるわけにはいかない。
![サンバの歴史−8/アンゴラの大きな役割](http://img05.ti-da.net/usr/wikipedisamba/200px-Queen_Nzinga_1657.png)
ポルトガルと平和条約の交渉を行うンジンガ女王(左)
*このンジンガ女王は、現在のサンバカーニバルのシンボルである
ヘイ・モモ(モモ王様)の伴侶のハイーニャ(ンジンガ女王)である。
ハイーニャ・ジンガは単なるモモ王様のお飾りの美女ではない。
ジンガの意味は、抵抗のシンボルであり力強く大変に奥が深い。
*Rainha Nginga (http://pt.wikipedia.org/wiki/Ana_de_Sousa)
(http://mnoticias.8m.com/zinga_cserrano.htm)
![サンバの歴史−8/アンゴラの大きな役割](http://img05.ti-da.net/usr/wikipedisamba/imagem.jpeg)
●Ginga Rainha de Angola
出版社:Oficina do Livro
著者:Manuel Ricardo Miranda,
アンゴラの女王ンジンガの物語。
アンゴラは1961年からポルトガルからの独立戦争を戦い、
1975年に独立を達成したが、独立後も1975年から2002年
に内戦が完全に終結するまで紛争が続いていた。
この期間に(1965年〜)アフリカ各地を歴訪していた
チェ・ゲバラもアンゴラへ入り、コンゴでは一時的に闘争
(コンゴ動乱)にも参加していた。
*紛争中でもアンゴラの首都ルアンダでは、ブラジルの
サンバのマルチーニョ・ダ・ビオラやベッチ・カルバーリョ
MPBのジルベルト・ジルやアメリカのソウルの大物アーティストの
ポインター・シスターズなど多くの音楽公演が行われていた。
*アンゴラ(http://ja.wikipedia.org/wiki/アンゴラ)
*バントゥー語系(http://ja.wikipedia.org/wiki/バントゥー系民族)
ーこのDVDの制作はアフリカの投資銀行(Banco Africano de Investimentos)
やテレビ局のTVSATなど数社が制作助成を行ってDVDの商品化が実現。
初めて制作された、アンゴラのルーツミュージックの紹介の映像。
アンゴラではキンブンド系の一般大衆に密着している音楽を、
「センバ」と呼んでいます。
都市部のエレクトリックな楽器を使った旋律のモダンな「センバ」
歌詞やメッセージを重視した、若者向けのラップのような「センバ」
年配者の人生の渋みと哀しみととうとうと歌う「センバ」
農村部のアフリカの激しいダンスと太鼓の掛け合いの「せンバ」
これらの音楽をアンゴラでは「センバ」と呼んでいます。
今流行のヒットチャートのセンバ。懐メロのセンバ。地方の伝統
芸能のセンバです。サンバの語源は諸説ありますが、アンゴラの
一般芸能の総称を「センバ/SEMBA」ということから、この芸能
の名称がブラジルの「サンバ」の名称に何らかの関係があるので
はないかとされており、アンゴラでは地域によって
「ゼンバ/Zemba」「ザンバ/Zamba」という言い方もあるようです。
このDVDの中のライブ映像は2003年1月28日、29日にアンゴラの
ラジオ局(Radio Nacional de Angola)の公開スタジオライブの映像を中心に、
ルアンダのストリートシーンや、*クドゥーロも収録。
スタジオライブの中のビリンバウの持ち手の細工が絶妙。
あれなら長時間持っても疲れないだろう。
他にアンゴラの市内の風景や部族の伝統芸能まで、新旧のアンゴラの
音楽シーンを、国際的に成功を納めたアンゴラ人のミュージシャンの
パウロ・フローレス総監督のアンゴラ側の制作に
よってアンゴラ経由でブラジルから出たDVDである。
*クドゥーロ/Kuduro =アンゴラで生まれたクラブミュージック
![サンバの歴史−8/アンゴラの大きな役割](http://img05.ti-da.net/usr/wikipedisamba/%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%90.jpg)
「Quintal do Semba」アンゴラの音楽シーンを紹介した珍しいDVD
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
まったく音楽とは関係ありませんがアンゴラつながりで「アンゴラウサギ」
![サンバの歴史−8/アンゴラの大きな役割](http://img05.ti-da.net/usr/wikipedisamba/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%A9jpeg.jpeg)
きゃん可愛いん
![サンバの歴史−8/アンゴラの大きな役割](http://img05.ti-da.net/usr/wikipedisamba/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%A9%EF%BC%92.jpeg)
イングリッシュアンゴラ、たまらんですね。
アンゴラうさぎ (主な品種:イングリッシュアンゴラ、フレンチアンゴラ、
サテンアンゴラ、ジャイアントアンゴラ)
本来は被毛を利用するために生み出された長毛種。
非常におとなしい性格で我慢強く、人形のように動かない個体が多い。
日本アンゴラ種は日本で独自に改良された品種である。
(独)家畜改良センター茨城牧場・長野支場において家畜遺伝資源の
維持を目的として飼育(生体維持)されていたが、平成18年度から
凍結受精卵新規導入による血統維持となり、
現在、生体の飼育はされていない。
しかし、その血統は、神戸市立六甲山牧場に受け継がれており、
生体を見ることが可能である。販売も行われています。
Posted by BBB SAMBA OKINAWA at 13:43│Comments(0)
│歴史