2012年05月23日
サンパウロのサンバ/サンパウロのカーニバルの歩み(7)
翁長巳酉HP http://www.deepbrabra.biz/
DEEP BRASIL 通販サイト http://www.deepbrabra.biz/shop/
沖縄サンバBBB ブログ http://sambabbb.ti-da.net/
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*専門用語、歴史、リオ、サンパウロなどカテゴリーで分類。
気分で勝手気ままに書いているので、
初めての方はカテゴリーから選択してみるのも手です。
「専門用語辞典」「歴史」を最初から、ちまちまと用語を
チェックすることをオススメします。
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2012年5月23日(水)
前回の サンパウロのサンバ/サンパウロのカーニバルの歩み(6)
(http://wikipedisamba.ti-da.net/e3833823.html)
ついに最初のエスコーラ「Lavapés 」誕生
こうしてサンパウロのサンバはチエテ川の奥のピラポラ村から始まり、
黒人達による独自な信仰心と解釈で太鼓の神様を「São Benedito」とし、
その神様に感謝するお祭りの「Festa de Nossa Senhora do Rosário」
で奉納されていた芸能の一つが「Samba de Bumbo」でした。
ミナス州ではこれが「Moçambique」となります。
ピラポラの昔の様子。まんまバイーアである。
このピラポラでの芸能はサンパウロのサンバの発祥地として広がり、
サンパウロ市内で、黒人労働者が多く住んでいたバハフンダ地区
以外に奴隷貿易の中心部であったリベルダージ、カンブシ地区も
黒人労働者の多い地区で、そこから誕生したのが現在現存する
サンパウロ最古のエスコーラSociedade Recreativa Beneficente
Escola de Samba Lavapésである。
解放奴隷の女性Madrinha Euníceが創立。彼女はピラポラの関係者である。
リベルダージのRua Galvão Buenoで生まれ育つ。
この当時から「サンバには国境はない」という主旨で活動。
Rua Galvão Buenoといえば、現在では中国系を中心に、
日系のお土産屋や日本食レストランが並ぶ地域だ。
この地域が昔はサンパウロのサンバの歴史を担っていた片鱗も
感じさせない・・が実は、そこら中にその奴隷時代の痕跡がある。
亡くなった黒人奴隷のための墓地と教会「Capela dos Aflitos」や
サンパウロのサンバ/サンパウロのカーニバルの歩み(2)
(http://wikipedisamba.ti-da.net/e3832563.html)に掲載。
Largo da Porvoraは奴隷の元処刑場だったし、
黒人奴隷の精神文化であるカンドンブレやウムバムダの儀式に
必要な物を販売する「Sete Linha」は
リベルダージ広場に現在もある。
1935年〜36年に警察署長でイタリア系の夫Chico Pingaと
兄弟の Zé da Caixaと一緒にリオに行く。
そこで出会ったのがプラッサ11でのサンバとEstácio de Sá。
リオのサンバに感動した彼女はサンパウロに戻り、
早速結成したのがLavapés。
エスタシオの赤と白から、現在のチームカラーが誕生した。
結成当時はサンバではなくRancho/ランショチームで、
エスコーラに創立では、音を出して集まれる練習場所や楽器の入手や
保管など大変苦労したという。
こうしてまず最初に41名の子供がエスコーラに参加。
地域のエスコーラとしてスタート切った。
Lavapésの「Bloco Baianas Paulista」
現在このエスコーラのメンバーはかなりVai-Vaiのメンバーで構成されている。
Vai-Vaiの名物、メストレ・ダ・バテリアのタデウのお母さんも
この地域で生まれ、このエスコーラで活躍していた方である。
LavapésとVai-Vaiの関係は密接だ。
Lavapésは私も数回訪れたことがあり、治安的には本気で極悪かつ
最悪な場所ではあるが、エスコーラのメンバーと一緒なら問題なし。
大変にフレンドリーで素晴らしいエスコーラである。
1950年代はエスペシャルのカテゴリーに在籍し、優勝連発の凄い
チームだったのだが、いかんせん現在は外部の人が、このチームに
練習に通うにはあまりに危険な地域のためメンバー激減。
現在はカテゴリーはかなり下に落ちてしまった。存続が危ぶまれる。
リサイクルゴミ置き場だった本拠地から引っ越ししてしまう。
チームは現在もMadrinha Euníceの親族がエスコーラを運営。
創始者のサンビスタ・ゴッドマザーMadrinha Euníceは
1997年に大変に惜しまれて亡くなった。
どうなっちゃうんだ?・・・・心配。
正式な創立年月日は1937年2月9日
色は赤と白。チームのシンボルはバイアーナ。
本拠地はリベルダージ。現在では東洋人街として有名だが
数十年前は有名な黒人街。奴隷時代の取引の場所であり
黒人専用の墓地もあった。
そこのLavapés通りで活動していたため、
そのままエスコーラ名となった次第。
地域名がエスコーラ名になることはよくあることである。
1968年 第19回のカーニバルの様子
1984年のカーニバル。ハイーニャだろうか?
この当時にはまだコステロは見当たらない。
靴もいかにもサンバダンサーの靴ではなく
普通のサンダルを使用。
*Madrinha Euníce
Wiki/http://pt.wikipedia.org/wiki/Madrinha_Eun%C3%ADce
*Lavapés
Wiki/http://pt.wikipedia.org/wiki/SRBE_Lavapés
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2012年5月23日(水)
前回の サンパウロのサンバ/サンパウロのカーニバルの歩み(6)
(http://wikipedisamba.ti-da.net/e3833823.html)
ついに最初のエスコーラ「Lavapés 」誕生
こうしてサンパウロのサンバはチエテ川の奥のピラポラ村から始まり、
黒人達による独自な信仰心と解釈で太鼓の神様を「São Benedito」とし、
その神様に感謝するお祭りの「Festa de Nossa Senhora do Rosário」
で奉納されていた芸能の一つが「Samba de Bumbo」でした。
ミナス州ではこれが「Moçambique」となります。
ピラポラの昔の様子。まんまバイーアである。
このピラポラでの芸能はサンパウロのサンバの発祥地として広がり、
サンパウロ市内で、黒人労働者が多く住んでいたバハフンダ地区
以外に奴隷貿易の中心部であったリベルダージ、カンブシ地区も
黒人労働者の多い地区で、そこから誕生したのが現在現存する
サンパウロ最古のエスコーラSociedade Recreativa Beneficente
Escola de Samba Lavapésである。
解放奴隷の女性Madrinha Euníceが創立。彼女はピラポラの関係者である。
リベルダージのRua Galvão Buenoで生まれ育つ。
この当時から「サンバには国境はない」という主旨で活動。
Rua Galvão Buenoといえば、現在では中国系を中心に、
日系のお土産屋や日本食レストランが並ぶ地域だ。
この地域が昔はサンパウロのサンバの歴史を担っていた片鱗も
感じさせない・・が実は、そこら中にその奴隷時代の痕跡がある。
亡くなった黒人奴隷のための墓地と教会「Capela dos Aflitos」や
サンパウロのサンバ/サンパウロのカーニバルの歩み(2)
(http://wikipedisamba.ti-da.net/e3832563.html)に掲載。
Largo da Porvoraは奴隷の元処刑場だったし、
黒人奴隷の精神文化であるカンドンブレやウムバムダの儀式に
必要な物を販売する「Sete Linha」は
リベルダージ広場に現在もある。
1935年〜36年に警察署長でイタリア系の夫Chico Pingaと
兄弟の Zé da Caixaと一緒にリオに行く。
そこで出会ったのがプラッサ11でのサンバとEstácio de Sá。
リオのサンバに感動した彼女はサンパウロに戻り、
早速結成したのがLavapés。
エスタシオの赤と白から、現在のチームカラーが誕生した。
結成当時はサンバではなくRancho/ランショチームで、
エスコーラに創立では、音を出して集まれる練習場所や楽器の入手や
保管など大変苦労したという。
こうしてまず最初に41名の子供がエスコーラに参加。
地域のエスコーラとしてスタート切った。
Lavapésの「Bloco Baianas Paulista」
現在このエスコーラのメンバーはかなりVai-Vaiのメンバーで構成されている。
Vai-Vaiの名物、メストレ・ダ・バテリアのタデウのお母さんも
この地域で生まれ、このエスコーラで活躍していた方である。
LavapésとVai-Vaiの関係は密接だ。
Lavapésは私も数回訪れたことがあり、治安的には本気で極悪かつ
最悪な場所ではあるが、エスコーラのメンバーと一緒なら問題なし。
大変にフレンドリーで素晴らしいエスコーラである。
1950年代はエスペシャルのカテゴリーに在籍し、優勝連発の凄い
チームだったのだが、いかんせん現在は外部の人が、このチームに
練習に通うにはあまりに危険な地域のためメンバー激減。
現在はカテゴリーはかなり下に落ちてしまった。存続が危ぶまれる。
リサイクルゴミ置き場だった本拠地から引っ越ししてしまう。
チームは現在もMadrinha Euníceの親族がエスコーラを運営。
創始者のサンビスタ・ゴッドマザーMadrinha Euníceは
1997年に大変に惜しまれて亡くなった。
どうなっちゃうんだ?・・・・心配。
正式な創立年月日は1937年2月9日
色は赤と白。チームのシンボルはバイアーナ。
本拠地はリベルダージ。現在では東洋人街として有名だが
数十年前は有名な黒人街。奴隷時代の取引の場所であり
黒人専用の墓地もあった。
そこのLavapés通りで活動していたため、
そのままエスコーラ名となった次第。
地域名がエスコーラ名になることはよくあることである。
1968年 第19回のカーニバルの様子
1984年のカーニバル。ハイーニャだろうか?
この当時にはまだコステロは見当たらない。
靴もいかにもサンバダンサーの靴ではなく
普通のサンダルを使用。
*Madrinha Euníce
Wiki/http://pt.wikipedia.org/wiki/Madrinha_Eun%C3%ADce
*Lavapés
Wiki/http://pt.wikipedia.org/wiki/SRBE_Lavapés
Posted by BBB SAMBA OKINAWA at 15:17│Comments(0)
│サンパウロ